第7回 呉服業界の未来を左右する「価格の透明化」

呉服業界が長年抱え続けている課題の一つに、商品価格の曖昧さがある。
一般の消費財であれば、メーカー希望小売価格が定められ、消費者はその価格を一つの基準として商品の価値を判断することができる。しかし、着物や帯をはじめとする呉服商品には、そのような価格表示の慣習がほとんど存在しない。
その結果、販売現場では根拠の不明確な「定価」や「参考価格」が示され、その価格から大幅な値引きを行うことで、あたかも特別にお得な買い物であるかのような販売手法が少なからず行われてきた。
もちろん、すべての事業者がそうではない。しかし、消費者から見れば、「同じような商品なのに店によって価格が大きく異なる」「本当に価値に見合った価格なのか分からない」といった疑念を抱くのは当然である。
実際、経済産業省の和装振興に関する議論の中でも、価格の分かりにくさや不透明さが消費者の不信感を生み、和装業界全体のイメージ低下につながっていることが指摘されている。
他業界では、こうした問題を防ぐためのルールが存在する。例えばテレビ通販などで「通常価格」を表示する場合、その価格で実際に販売した実績が求められる。販売実績のない架空の価格を示し、大幅値引きを演出することは認められていない。
しかし呉服業界では、こうした考え方が十分に浸透しているとは言い難い。結果として、一部の不適切な販売手法が業界全体の信頼を損ない、新しい顧客の参入を妨げる要因にもなっている。
今こそ業界全体で価格の透明化に取り組むべきではないだろうか。
その第一歩として、メーカー希望小売価格の設定と公開を提案したい。メーカーや産地が希望小売価格を明示し、自社ホームページなどで誰でも確認できる仕組みを整えるのである。もちろん販売価格は各販売店の自由であるべきだが、消費者が価値を判断するための共通の基準を持つことは極めて重要である。
価格の透明化は、単に安売りを促進するためではない。むしろ品質や技術、意匠性といった本来評価されるべき価値を正当に伝えるための仕組みである。
消費者の信頼なくして市場の拡大はない。和装文化を次世代へ継承していくためにも、「価格が分からない業界」から「安心して購入できる業界」への転換が求められている。
価格の透明化は、呉服業界の信頼回復と持続的な発展に向けた最も重要な改革の一つではないだろうか。(2026/6/14筆:佐藤正樹)
第6回 着物文化と呉服業界は同じではない

「着物文化を守らなければならない。」
呉服業界に身を置いていると、この言葉を耳にする機会が少なくありません。もちろん、その思い自体は大切なものです。着物は日本の歴史や美意識、季節感や礼節を映し出す文化であり、多くの人が後世に残したいと願う存在でしょう。
しかし、ここで一度立ち止まって考えてみたいことがあります。
それは、「着物文化」と「呉服業界」は本当に同じものなのか、ということです。
私たちはしばしば、この二つを同義語のように語ります。しかし実際には、文化と産業は別のものです。
たとえば和食は日本を代表する文化ですが、特定の飲食店だけが和食文化を支えているわけではありません。家庭料理もあれば、学校給食もあり、海外のレストランで提供される和食もあります。文化は社会全体の中で受け継がれていくものです。
着物も同じではないでしょうか。
近年、観光地では着物レンタルを楽しむ外国人旅行者の姿を多く見かけます。卒業式には袴を着る学生がいます。夏祭りでは浴衣を着る若者も少なくありません。SNSには着物をファッションとして楽しむ人々の投稿があふれています。
そこには確かに着物文化があります。
しかし、その担い手は必ずしも従来の呉服業界だけではありません。レンタル事業者、観光業者、写真館、ネット販売事業者、さらには個人の発信者たちも、着物文化の広がりに一役買っています。
つまり、着物文化は形を変えながら生き続けているのです。
一方で、呉服業界は厳しい状況に置かれています。市場規模は長期的な縮小傾向にあり、顧客の高齢化や後継者不足も深刻です。
ここで誤解してはいけないのは、業界が苦しいことと文化が消えることは同じではないという点です。
むしろ歴史を振り返れば、文化は産業構造の変化を乗り越えながら生き残ってきました。文化は人々に必要とされる限り形を変えて存続します。しかし企業や業界は、社会から選ばれなければ存続できません。
厳しい言い方をすれば、「着物文化を守る」という言葉の裏に、「現在の業界の仕組みを守りたい」という意識が隠れている場合もあります。
本当に守るべきものは何でしょうか。
着物そのものなのか。着物を楽しむ人なのか。それとも現在の流通や販売の仕組みなのか。
その問いに向き合うことなくして、未来は見えてきません。
着物文化は、おそらくこれからも残るでしょう。形を変えながら、多様な楽しみ方を取り込みながら生き続けるはずです。
だからこそ呉服業界には、「文化を守る」という発想だけでなく、「文化に必要とされる存在であり続ける」という発想が求められているのではないでしょうか。
文化が残ることと、業界が残ることは同じではありません。
その違いを認識することこそ、これからの呉服業界にとって最も重要な第一歩なのかもしれません。(2026/6/13筆:佐藤正樹)
第5回 向かう場所が見当たらない。今、いる場所も危ない
〜茹でガエル化する呉服業界〜

呉服業界の市場規模が、いよいよ2,000億円を割り込む見通しだという。
かつて数兆円産業と呼ばれた業界から見れば、もはや「縮小」という言葉では表現しきれないレベルの変化である。しかし不思議なことに、業界内にはそれほどの緊張感が感じられない。もちろん危機感を持って挑戦を続ける企業も存在する。インバウンド需要やレンタル市場を取り込み、新しい顧客との接点を作り出している企業もある。しかし、その多くは従来の呉服業界の常識に縛られていない新しいプレーヤーたちだ。
一方で既存の業界はどうか。
売上は減少し続け、顧客は高齢化し、市場は縮小を続けている。それでも多くの事業者は、どこかで「そのうち景気が戻る」「良い商品なら売れる」「着物文化はなくならない」と考えているように見える。
しかし、市場は文化を守るために存在しているのではない。消費者に選ばれるものだけが残るのである。
現在の呉服業界は、まさに「茹でガエル」の状態ではないだろうか。
水温が少しずつ上がると、カエルは危険を察知できず、そのまま茹で上がってしまうという有名な例え話がある。市場縮小も同じだ。毎年数パーセントずつの減少だから危機が見えにくい。しかし振り返れば、この30年で市場は十分の一以下になった。それでもなお、多くの人が従来と同じ商売を続けている。
さらに恐ろしいのは、供給側の崩壊である。
染織、加工、仕立て、悉皆。日本の着物文化を支えてきた作り手たちの高齢化は深刻な段階に入った。後継者不足は何十年も前から言われてきたが、多くの業界人はそれを未来の課題として扱ってきた。しかし今や、それは現在進行形の問題である。
希望的観測だが、近い将来、需要が回復しても作れないという事態が起こり得る。
「商品が足りない」のではない。「作る人がいない」のだ。
さらに業界には大量の在庫が眠っている。しかし、その多くは現代の消費者が求める商品ではない。デザイン、色彩、価格、用途。その多くが現在の生活者感覚とかけ離れている。
つまり業界は「在庫はあるが売るものがない」という奇妙な状況に陥っている。
厳しい言い方をすれば、売れない理由を景気や人口減少のせいにしている間に、消費者との距離は決定的に広がった。
いま必要なのは、着物をどう売るかではない。
なぜ着物が選ばれなくなったのかを直視することである。
市場は縮小し、作り手は減少し、顧客は高齢化する。その中で従来の成功体験にしがみつくことは、安全策ではなく最大のリスクだ。
向かう場所が見当たらない。
しかしそれ以上に深刻なのは、今いる場所がすでに安全圏ではないという事実である。
業界がその現実を認識できるかどうか。
残された時間は、私たちが思っている以上に少ないのかもしれない。(2026/6/13筆:佐藤正樹)
第4回 きもの業界と介護業界の類似性?

先日、あるきっかけで介護施設に行く機会があったが、そこはとてもきれいで、利用者の老人や施設で働く方々も明るく、好感が持てたが、働く人々の言葉遣いを聞いているうちに、だんだん腹立たしくなってきたと同時にあれ、私がきもの業界で感じ続けている言葉遣い似ているぞ!と感じてきた。
利用者といえば、お客様であり、ほとんどの場合、人生の先輩なのに、よくて友達、悪くて子供相手の話し方をしている。言いきかせるような、上から目線な言葉の数々に閉口しながら、きもの業界、特に販売を伴うシーンでの顧客に発する言葉遣いとダブってきた。
もちろん、よそよそしい丁寧すぎる言葉は、人と人との距離を遠ざけるが、相手を考えない友達言葉は、発する人の品格を貶め、業界全体のイメージをも傷つける。(2024/6/6筆:佐藤正樹)
第3回 一週間だけのきもの?

写真は山口県萩市が10月1日から約1週間行う「着物ウィークin萩」のポスター。期間中は様々な企画があり、たくさんのきもの姿が街を彩ることを期待したいものだ。特に同市は昨年、きものの似合う街大賞で全国グランプリに選出されており、わたしも何度も訪問したことがあるが、市内には多くのきもの姿が映える場所が多く、まさにきものの似合う街だと思う。ウィークの成功を祈りたい。
ただ、「着物歩きが、おトクな一週間」というキャッチコピーがどうしてもひっかかる。世の中、お得への価値観が充満しているからこそのキャッチなのかもしれないが、きものを着てもらうために、お得が必要なんて、情けないと直感してしまう。
きものは四季の表現が豊かで、刻々と変化する自然と一体になったものであり、その街の四季をより感じるためものであろう。なぜ春夏秋冬の中のわずか一週間だけなのか?
品格、敬意、礼儀、本質、見識、洒落、誠実
世の中が失いつつある日本らしい、これらの言葉のすべてがあてはまる、日本文化の集大成のひとつが和装であり、それをおトクと表現するのは、実に「今」を表している。
もちろん、きものを着るキッカケになればという狙いはわかるが、これではきものがコスチュームになってしまう。こんな企画がきもの姿をどんどん特別なものにし、普段から遠ざけている。こんなことを言うのも着物警察なのかな?(2020/9/22筆:佐藤正樹)

第2回「二十歳の振袖」の行方は?
来年の成人式が心配です。このまま感染症が終息して、例年のように開催できるでしょうか?成人年齢が18歳になり、二十歳(はたち)の持つ社会的意味が小さくなることで、そもそも成人式がどうなるのか?という基本的な心配をかかえながら、さらにこの感染症の広がり。二十歳の振袖が大ピンチです。振袖需要に大きく依存するきもの業界も、きもの離れという慢性的な要因、成人年齢の法的な変更と感染症という2つの急性要因から、大きすぎるダメージを受けています。心配です。
この際、思い切って二十歳の振袖文化を捨ててしまってはどうでしょうか?振袖依存の高い会社も劇的に舵を切ってほしい。いや、舵を切らないと生き残れない。
18歳成人、日本全体の質素化、若者の倹約志向、親世代の価値観の変化、そして今回のコロナ禍でおそらく物凄い加速度で、振袖の市場規模は減退していく可能性が高いと思います。
それと、二十歳の振袖は日本のきもの文化全体にけっしていい影響を与えていないのではないでしょうか?多くの日本女性は「きものは成人式で振袖着ておしまい」。いきなりもの凄いごちそうを食べて、わずが一回できものを着ることに満腹してしまう。振袖をきっかけに和装に興味を持つ人はたいへん少ないように思います。
ぜひ学校で和装文化を教えてほしい。そして着付けも。そしてまず若い世代の10人に一人は「きもの好き」女子になってもらいましょう。きっとその人がキーウーマンになるはずです。「学校できものを!」よくよく考えたら当たり前!
コロナ禍というピンチをチャンスに変える方法のひとつだと思います。(2020/7/1筆:佐藤正樹)

第1回 きものへのあこがれはうつくしく経験はかなりくらい
直接聞く、着付け教室(※)の受講生の声は、和装業界の未来につながる声だと思う。その声に希望を感じることもあるが、これまでわたしも含め業界がやってきたことを肯定できない声があまりにも多い。
着付けを習おう、もう一度チャレンジしようという方々からの声だから、まだやさしさや期待がある。もの言わぬ多数の人の呉服業界へのイメージはどうなんだろうか?
過去、着付け教室に通ったが、きちんと教わっていない人がとても多い。今の教室での学び方をみれば、それは本人の責任ではなく、教室に問題があったと思わざるを得ない。呉服業界では「無理な営業姿勢」を一番の問題とされることが多く、事実、それを語る受講生もいるが、着付けそのものをちゃんと教えてくれなかったという声が多いこと、そしてその教室のほとんどが、わたしが過去働いたあの無料の教室であることに衝撃を受けた。
無料教室の仕組みは、運転は無料で教えるから、自動車を買う時はうちで買ってくださいというもので、着られない人がきものなど買うわけないので、ビジネスモデルとして秀逸だと思うが、もっとしっかり運転を教えたらどうだろうか?運転が下手のままだと、いい車に乗ろう!という意欲もなくなる。たとえ教室で購入がなくても、着付けさえ上手にできるようになってもらえば必ず需要につながると思う。
この教室に限らず、この業界の多くが、今日の食い扶持を得るために、種籾を食らうが如きである。
いまや実家のタンスにはきものはなく、おかあさんはもちろん、おばちゃんもきものを着ない、着られない。そんな次の世代にきものを着てもらうことは容易ではない。
世の中はいっきょにオンライン化にすすむ。たまに出かける、おでかけだからきものでおしゃれ。そんな意識を作らないとおそらく10年後は普通呉服の市場規模は半減していることだろう。(2020/5/27 筆:佐藤正樹)
(※)きもの新聞の発行元が主催する「やさしいきもの着付け教室」